(韓国・ハンギョレ21 6月8日 663号)
ハンギョレ21 2007年6月8日(第663号)

20周年にあたる、1987年6月抗争、主要大統領候補達は、当時何をしてどんな意味を留めているか?
今年6月は、1987年の6月抗争が、ちょうど20年を迎える時だ。民主化を目指した国民的熱望が墳出された6月抗争は‘民主化以後の民主化’と言う課題を我々に残したまま歴史の中を歩んでいった。しかし、抗争の息子たちは、相変わらず現実で‘今日の歴史‘を作っている。乙支路(ウルジロ)の高層ビルディングから、トイレットペーパーを(デモ隊に紙ふぶき代わりに)投げた会社員と、ハイヒールを脱いで手にもち、スローガンを叫んだオフイスガールと、子供を引っ担いで、海苔巻を作って出てきたおばさんと、学生たちが心配で道に出たが、デモ隊の最前列に立つ事になったおじいさんまで、名前なき数万のこれ等の人々が6月の街路の主役だった。
大統領候補たちも、直接、間接的に6月の一つの裾をつかんでいた。「ハンギョレ21」は、当事者の証言と周辺の取材、関連材料を土台に、主要大統領候補らの6月を再構成してみた。12月大統領選挙を控えて、政治、経済、社会の民主化、普遍的人間性の獲得と言う6月抗争の‘成果の限界‘を見守って発展させる責務を換起しようと言う目的からだ。一般の人々はどうだったか。「ハンギョレ21」記者たちの記憶を通して振り返った。6月抗争に引続いた87年労働者大闘争が、我々に残した宿題も点検した。
キル・ユンヒョン記者
キム・ソヒ 記者
綿ズボンにTシャツを着た、痩せこけたソウル大法学部休学生、ウオン・ヒリヨンは、6月10日、一日中友達と町にいた。日が暮れれば明洞聖堂(訳注・明洞の丘の上にある、1893年に完成したゴシック様式の韓国最大最古の教会。軍事政権時代学生たちの篭城の場所となった。民主化運動の集会所でもあった。)で夜を明かして、次の日、町に出かけた。 明洞聖堂の籠城場には顔が白い看護大生らと医大生らも多かった。もはや以前の、80年代初、中盤の、暗く秘密めいた少数の運動ではなかった。青年ウオン・ヒリョン(訳注・現保守野党ハンナラの国会議員)は胸が躍った。最初に経験した「勝利」の予感だった。
明洞城壁の籠城場の痩せこけた青年、ウオン・ヒリョン

“ただ、デモ隊の、ワンオブテンです。もっともらしいチームのメンバーでもなかった。しかしすべての人が主人公だったのです。“ 通りは人々で一杯だった。乙支路(ウルジロ)の高層オフィスビルから、(紙ふぶきの代わりの)トイレットペーパーガ翻って、人々は(デモ隊に)飲料水を手渡した。商人達は、(催涙弾に)咳き込んで(戦闘警察に)追われる学生たちを門の中へ移してシャッターを下ろした。”こんな事があったよ。”(胸が)詰まる感じに、胸の一方がヒリヒリした。周辺を取り巻くホワイトカラーたちは、ネクタイを締めて”護憲撤廃”を叫んで拍手もした。
”何!会賢洞(フエヒョンドン)の方に警察が見つかった?“ 李海瓚(イ・ヘチャン・訳注・櫨武鉉政権の前総理)民主統一民衆連合(以下、民統連)総務局長は、電話を受けてパット立ち上がった。ソウル鐘路(チョンノ)5街、キリスト教会館312号事務室。ここでまた一つの戦争が広がっていった。戦局のあちこちで進行中である示威現場の速報が、電話機の向こうの緊迫した音声と拍手の轟音に乗って、「民主憲法争取汎国民運動本部」(以下、国本、)事務室に入ってきた。夕方7時30分、会賢(フエヒヨン)高架を占拠した示威隊は、投石戦の後で警察の阻止線を突破しだした。劣勢となった泰陵(テルン)警察署{今の蘆原(ノウオン)警察署}所属の戦警(戦闘警察)40余名が示威隊に取り囲まれて武装解除された。国本事務室には、瞬間歓呼の声が溢れた。イ・ヘチャンは、いすの上に体を崩すように倒した。一瞬も気に置けない一触即発の緊張状態が続いていた。
1987年 「6月抗争」は、一人の大学生のとんでもない死で始まった。ソウル大言語学科3回生、朴鐘哲(パク・チョンチョル、訳注・プサン出身当時21歳)は、1月13日、新林洞(シニムドン)学生下宿屋の前で警察に不法に連行されてから、11時間ぶりに、冷たい屍に変わり果てた。かれは、治安本部(今の警察庁)ソウル南営洞大公(ナムヨドンテゴン)分室で、明け方まで続いた水拷問、を耐えることはできなかった。ソウル大「民主化推進委員会」事件で手配された先輩、パクチョンウンの居所を話すことを追求される過程だったという。
21歳の若い死だった。
“チョンチョルを生き返らせろ!!”民統連と民主化運動青年連合(民青連)など当時の民主化運動の陣営では、2月7日(2・7国民追悼大会)と3月3日(3・3平和大行進)の大規模集会を開いた。労働運動家・魯会燦(ノ・フエチャン、訳注・現民主労働党国会議員、)は、南大門市場で旗を使って声を張り上げた。仁川(インチョン)を根拠に労働運動をした彼は、同僚たちと電車に乗り南大門に向かった。彼は、83年から手配状態だった。その年の夏を、紺色の冬ズボン一着で出た。軍事政権の暴圧に手なずけられた人々は、大規模野外集会を負担に感じるようだった。二つの集会は、警察の源泉封鎖に遮られて小さく収まった。
パク・チョンチョルの屍は、一握りの灰と変わり、凍りついた臨津河(イムジンガン)の水の中に沈んだ。
軍事政権は雑ではなかった。4月13日全斗換(チョン・ドハン、訳注・79年新軍部クーデターで大統領となる。光州での民主化運動の鎮圧で光州市民500人以上を殺害)は、一切の改憲論議を禁止する「護憲宣言」を発表して二日後から、全国経済人連合会・大韓商工会議所・韓国貿易協会・韓国経営者総協会・中小企業協会組合中央会は、”4・13決断を歓迎する”と言う声明書を出し始めた。
在野圏の“知恵者”李海瓚(イ・ヘチャン)
反転は意図しない所から生まれた。5月18日夕刻6時30分、ソウル明洞聖堂の光州抗争7周年犠牲者らを追悼するミサが終わった後、キム・スンフン、カトリック正義具現全国司祭団代表が壇上に登った。「パク・チョンチョル君の拷問致死事件は造作されました。」神父は震える声で3320字の分量の声明書を朗読し始めた。「奴らが人を殺すというのは事実であった。」市民らの憤怒は爆発直前の活火山のように燃え上がった。その熱気を一つの処に結集する導火線が必要だった。散らばっていた民主化勢力は、一つに団結せねばならなかった。
5月27日朝8時、ソウル、ヒャンリン教会に集まった在野の学生・宗教、野圏の民主化推進協議会(民推協)人士らは、「国本」の旗の下一つに団結した。
国本は6月10日”朴鐘哲(パク・チョンチョル)拷問殺人隠蔽操作糾弾、更に護憲撤廃汎国民大会(以下汎国民大会)“を開くことにした。6月8日から戦端が町を覆って市内至る所には、催涙弾と棍棒で重武装した警察が配置された。
37歳の李海瓚(イ・ヘチャン、)は、在野運動圏のサルリムクン(やりくり上手な人)で知恵ものだった。その年、示威の企画は彼の役割だった。かれは、「2・7と3・3を通して多くのものを学んだ。」と言った。「去る二回の集会で警察が動く論理が分かるようになった。警察一個中隊は160名で、三個中隊が一チームとして行動する。全体の警察が100余チームだとすれば、可溶兵力は、4万8千名だ」彼は、この兵力がソウルに同時に散らばれば、到底手を使うことが出来ないが、全国分散示威で兵力が2万名程度くらいになれば、何か遣って見るに値するという考えをした。ソウル大前の社会科学書店、「広場書籍」(クアンジャン・ソジョク)を運営しながら、本運搬用に古物の“プリシャ”自動車を一台購入したが、その車を引いてソウルのいろんな所をほじくり通って、警察の動きを把握した。古物プリシャは、その年の夏、民主化運動圏の“移動状況室”の役目を十分にやりぬく。
夜が明けた。。民青連(ミンチョンリョン)初代議長、金槿泰(キム・クンテ、訳注・前ヨルリンウリ党議長・国会議員)は、慶州(キョンジュ)教導所(刑務所)で6月10日を迎えた。彼は、三民闘(訳注・80年代学生組織「民衆民主化と民族自主統一の為の闘争委員会」」・背後操作嫌疑で南嶺東(ナムヨントン)の治安本部対共分室に引っ張られ殺人的な拷問を受けた。警察は、彼の頭・胸・股ぐらを塩水に浸し電気で焼いた。彼は、拷問の事実を夫人イン・ジェクンを通して暴露し良心囚の代名詞となった。彼は獄中で同僚チエ・ソジャらと外の日程に合わせて民衆の儀礼をし、声明書を朗読しスローガンを叫んだ。”集会と示威”の方法は、(独房の)扉を叩くことだった。後で彼と一緒に獄中生活をしたキム・ヨンジンの兄、イ・キウ議員補佐官(中央大総学生会長出身)は、「なまじっか指導者として前へ出ない姿が印象的だった。」と言った。「そうであるが、決定的な瞬間には、いろんな意見を集合し最も現実的な処方を取り出したんです。」
青年、高新和(コ・ジンフア、訳注・保守野党・ハンナラ党国会議員。06年、8・11、〈靖国神社参拝に反対する東アジア市民連帯〉の集会に來日)も、米文化院占拠籠城を背後操縦した嫌疑によって慶州教導所で獄苦を経験していた。抗争の勝利で良心囚らが釈放された時、彼は出ることが出来なかった。
その日は二つの行事が重なった。ひとつは盧泰愚(訳注・79年全と共に新軍部クーデターに加担。最後の軍事政権・)を大統領候補に選ぶ民主正義等〔民正党〕、全党大会だったし、もう一つは、国本の汎国民大会だった。全党大会は、正午ソウル・チャムシル体育館で開かれた。体育館には花びらが舞ってチアリーダーが目まぐるしく踊りを踊った。汎国民大会が予定されたソウル市庁前聖公会聖堂は、警察に封鎖された。聖堂の外に数万の人波が集まってきた。同じ時刻、大聖堂(明洞聖堂)には、分断42年の独裁打倒を祈願する鐘が42回轟いた。
人波の中に労働運動家、シム・サンジョン(訳注・民主労働党国会議員・党内大統領候補)がいた。彼はその瞬間「息が止まるようだった」と言った。彼は1985年、九老(クウロ、輸出産業工業団地)労働者同盟罷業を主導した嫌疑で手配中だった。彼の首には懸賞金500万ウォン、彼を捕まえる警察には一階級特進と言う褒章がかかっていた。「歴史は結局、民衆の力で発展すると言うものだよ。そんな感じだったよ。」彼は、民主労総(訳注・〈全国民主労働組合総連合〉1995年結成された階級的視点を持った韓国労働者のもっとも大きなナショナルセンター。75万人を組織。韓国初めての左翼労働者政党・民主労働党の支持基盤である。1999年合法化された。)の全国労働組合協議会〔全労協〕創立日を一日前にした1990年1月21日警察に連行され満朔な状態で裁判を受けた。彼は懲役一年六ヶ月、二年の執行猶予刑を受け解放された。
仁川(インチョン)地域労働者を組織した魯会燦(ノ・フエチャン)
警察は6月10日全国20ケ都市、104ケ所で四万名が示威に参加してこの内3381人を連行したと発表したが、信じる人達は多くはなかった。国本の集計では、示威参加者が三十万名を超えた。人々は夜を明かして示威を繰り広げ、残った人達は警察の追撃を破り、ソウル明洞聖堂に潜んだ。投石戦は明け方三時まで続いた。
また、一つの若い死が予告されていた。6月9日、延世大(ヨンセデ)経営学科二回生、李韓烈(イ・ハンヨル、訳注・光州出身当時20歳・延世大。延世大近くに李韓烈記念館が2005年開館した。)は、午後五時、”汎延世人総決起大会”に参加して校門前まで進出したが、向かい側の道から戦闘警察が放つSY44催涙弾に後頭を当てられた。(訳者注・これは、銃の威力と変わらない水平発射の結果だが、70年代日本の機動隊でも行使された。)彼は即時、重傷者室に移されたが脳死状態に落ちた。国本は、6月18日を催涙弾追放大会と定めた。もう一度大規模集会が計画された。日があけた。6月18日、女性運動家・韓明淑(ハン・ミョンスク、訳注・2006年4月,韓国初の女性首相となる。ヨルリンウリ党員、党内大統領候補。梨花女子大卒79年朴独裁下国家保安法により中央情報部に逮捕され拷問の中2年間投獄された。夫は、朴聖焌氏・聖公会大教授、1967年結婚したが6ヶ月後〈統一革命党事件〉で北韓スパイとして13年間の獄中生活を送る・)は、頭に麻の手拭をかぶって鐘路(チョンノ)の四つ角に立っていた。韓国の進歩女性団体らは、1987年2月韓国女性団体連合」(女連)を結成した。その日「女連」会員らの手には花が持たれていた。
「拘束者の母親達とともに戦闘警察らに、赤いカーネイションを付けるのを引き受けたのです。」オモニ達の後ろには数万名の示威隊が布陣していた。
「打つな!」オモニたちが叫んだ。戦警らは動いたが暴力を防ぐことは出来なかった。新たに大規模衝突が続いた。ビルデイングから、トイレットペーパーと書類が飛んできて、青年たちは(催涙ガスで)咳をこぼしながら石を投げた。
戦いの波は地方にも引き続いた。魯会燦(ノ・フエチャン、)は、仁川(インチョン)の富平(プピョン)駅の前にいた。インチョンには、組織化されたネクタイ部隊(ホワイトカラーの労組)や学生運動勢力がいた。示威の参加者の大部分は労働者だった。集会は、労働者達が退勤する夜9時頃始まって、夜明け2時~3時まで続いた。彼が導いた、仁川(インチョン)地域民主労働者連盟(仁民労連)が創立されたのは、5月18日富平(プピョン)駅前のアスファルトの上だ。彼は、「街路灯だけともったプピョン駅前を、いっぱいに満たしたその喊声を、忘れることは出来ない。」と言った。
「あれは何だ?」学校から帰ったチョン・ドンヨン<文化放送>記者の目の前に信じられない光景が広がっていた。彼は、英国ウエールズ大学とカーディプ大学で研修を受けていた。<BBC>のナインオクロックニュースだった。「BBCは、韓国大統領の英国訪問も簡単に取り扱う、英国中心の報道で有名な放送である」86年彼は民正党を出入りした政治部記者だった。血沸く8年次だった。「全斗換(チョン・ドファン)独裁の暴圧性が極まって、とても疲れていた。」悩んだ挙句、英国へ出かけることに決心した。彼は、「現場にいることが出来ず、物足りなく、申し訳ない気持ちだった。」と言った。
クウオン・ヨンギル<ソウル新聞>フランス特派員も、ソウルから飛んできたファクスで故国の消息に接した。「フランスも同じだった。自分たちの6・8革命と比べる報道が多かったよ。」クオン・ヨンギルは、「79年9月ソウルを出たときは、死ぬようだったが、もう、帰る自信を貰った。」と言った。彼は、88年2月帰国した。
ソン・ハッキュ、韓国キリスト教社会問題研究院(キ社研―キサヨン)院長は、オクスフオード大学で、政治学博士学位論文を準備していた。彼は、故チョ・ヨンレ弁護士、金槿泰(キム・クンテ)議員と共にソウル大運動権の<三銃士>と呼ばれた。80年“ソウルの春”が来て英国の協会で貰う奨学金を受け屹然と留学の道に出た。87年7月、キ社研で発行した<6月民主化大闘争>と言う本の序文で、彼は、「善良な勢力が、この時代の兆候を直ぐに知り、一丸となって悪の勢力に勝つのに、手助けとなることを願う。」と記した。
朴槿恵(パク・クンヘ)、長い幽閉から抜け出る
独裁政権は、もうこれ以上、退く所はなかった。国本は決定打を準備した。6月26日に予定された‘国民平和大行進’だった。警察力は、怒った市民たちに適うことは出来なかった。全国の派出所29ヶ所、警察署2ヶ所、民正党(訳者注 盧泰愚・軍事政権の与党)の建物4ヶ所が燃えた。国本は、6・10大会時の3倍を超える100万名がこの日平和大行進に参加したと推算した。
結局3日後、盧泰愚・民正党大統領候補は、”大統領直選制の受容”を骨格通り、大6.29宣言 (訳注19)) をするにいたった。
抗争は、意外な結果を生むこともした。朴槿恵(パク・クンヘ、訳注・朴軍事独裁大統領の娘)育英財団理事長は、長い幽閉から抜け出した。朴正熙(パク・チョンヒ、訳注・18年間韓国民衆を軍事独裁によって支配した大統領)に続く政権を握った新軍部は、育英事業に力を出したパク一家の活動を遮った。国立墓地で父親の公開追悼式も開けなかった。その年の夏パク・クンヘは、新堂洞(シンタントン)の家と子供会館を行き来しながら、すごした。
87年7月子供会館の中に、子供生活教育機関、槿花院(クンファウォン)と東屋木蓮亭 、教育場ヤングフェルの名前をつけた。
その年の秋、初めて父親の公開追悼式を開くことが出来て10年後である1997年政界にデビューした。
闘争は終わりとなり、六月抗争の火は、急速に沈静した。国民の関心は、すでに直選制改憲以後の政治日程に移って行った。ネクタイ部隊(ホワイトカラー)が(闘争から)離れた隊伍に残ったのは、労働者らだけだった。7月に差し掛かって、急速な産業化の期間に一方的な犠牲を強いられてきた労働者たちの要求が噴出し始まった。尉山(ウルサン)の大工場では、先を争って労組を打ちたてようとし、会社は、決死的にこれを拒んだ。六月抗争のあとある日の夜、プサンとウルサンの判・検事らが集まって会食の場を持った。「公安令状問題で、検察が法院とイザコザを起こすことは、もうないだろう。」と、誰かが言葉を切り出した。軽い笑い声が出た。うなずく言葉が続いた。みんなが身軽な表情だった。急にウルサン支庁の強力部のホン・ジュンピョ検事が酒一杯を口に注ぎこんだ。「いいえ、更に多くなるはずです。6・29宣言では労働者の問題に対する言及が無いじゃないですか。ウルサンは、尋常ではないです。」その予測は正確に当っていた。麻薬担当だったホン・ジュンピョ検事にも公安事犯が配当された。公安部の人手が徹底的に不足していた。「現代(ヒョンデ)重工業の労働者36名が送致された時、全員拘束、全員起訴が方針だったが、私が担当した1名だけ唯一起訴猶予処分を下したのです。大検(最高検察庁)公安部長に下品な悪口まで入ったが一名でも出ると、労使間の話し合いが可能になるかも知れません。その後公安部適格者として刻まれましたよ。」
李明博(イ・ミョンパク、訳注・ハンナラ党・党内大統領候補としてパク・クンヘと争っている。前ソウル市長)現代建設社長は、全国を揺り動かした混乱の中で懸命に仕事をした。6月半月の間、現代(ヒョンデ)建設が取り掛かった着工式だけでも、サウジアラビア・リヤド~カシム架空送電線工事、クエート・ウムクダイル送電工事、クエート・パハヒル高速道路交差点工事等いろいろだった。
かれはさる2月、民主化勢力を狙って、「最近(自分を)非難する人達を見ると、70~80年代ブラブラして遊びながら、恩恵を口にする人々であって非難する資格が無いと考える。」(訳者注・前ソウル市長で、ハンナラ党次期大統領候補を争っているかれは、身内のスキャンダルを暴かれて、ヨルリンウリ党や、民主労働党など軍事独裁と戦った70~80年代世代の民主勢力に逆切れして発言した。)と言う言葉で、世間の噂になった。かれは、大韓オリンピック委員会常任委員も受け持っていた。委員会は6月抗争がオリンピックに悪影響を及ぼさないように苦心したことで知られている。
弁護士・チョン・ジョンペは、時局事件の弁護で目が回るほど忙しかった。当初、彼の夢は、判・検事だったが「全斗換(チョン・ドフアン)がくれる任命状は、受けられなかった。」結局弁護士になって<キムアンドチヤン法律事務所>に入所した。人々は捕まって監獄に引っ張られ、拷問に会い結局殺された。到底耐えることが出来なかった。苦悶の末に、故チョ・ヨルレ弁護士と共に<南大門合同法律事務所>を設けた。85年10月だった。2年余り忙しく仕事をした中で、六月抗争が勃発した。以後、時局事件の弁護業務が続いた。87年に変わったとき起こった「九老区役所不正投票事件」を手始めにその後、イム・スギョン訪北、ムン・イクァン訪北、リ・ヨンヒ訪北など大きな事件の弁護を引き受けた。1988年、<民主社会の為の弁護士の集まり>が創立され、創立メンバーとなった。
時局事件の弁護に、一息入れる暇も無かったチョン・ジョンペ
若い、李韓烈(イ・ハンヨル、)が息絶えたのは、7月5日明け方2時、セブランス病院の重患者室であった。7月9日朝8時、延世大(ヨンセデ)校庭で葬礼式が開かれた。前日、監獄の門を出た文益煥(ムン・イクフアン)牧師が、のどが詰まった声で烈士たちの名前を葬礼で呼んだ。イ・エジュ教授は、怨念を解く踊りを踊った。葬礼の行列は、わが現代史の最大の集会として記録されるほど、実に壮大な規模だった。
先頭がソウル市庁に至ったとき、後尾はまだ延世大校庭を出て来ることが出来なかった。軍事政権は、低く息を殺していた。集まった人波が100万名であったか200万名であったか、20年が過ぎた近頃に来て、調べる必要は無いようだ。韓洪九(ハン・ホンク、訳注・彼の「韓国現代史」は、ぜひ一読を)聖公会大教授は、「誰も予想できなかった人波だったし、誰も責任負う事が出来ない現場だった。」と、言った
その現場に、葬礼委員会も、国本指導部も、ソウル地域大学生代表者協議会も無かった。中心を失った人々は、光化門(クアンフアムン)側に頭をむけてから、沈黙した戦警たちの催涙弾が、火を噴いた。人々は散りじりになり、新たに集まることは出来なかった。
以後、両金(訳者注、金大中と金泳三を指す)は分裂し、(盧泰愚)軍事政権は5年延長され3党合同で民主化勢力は二つに裂かれた。ネクタイ部隊が抜けた空間で、労働者達は政権の弾圧を全身で受け出した。
二十年が経った夏、ホッソリ痩せた青年、ウオン・ヒリョンは、ハンナラ党(保守野党)の再選国会議員として党内大統領候補の競選に立っている。「6月は胸いっぱいの勝利でもあるが胸の冷たい傷でもある。」と言った。
労働運動家、ノ・フエチャンは、能弁政治人として民主労働党大統領候補競選に立っている。「6月(学生とネクタイ部隊)と、7月~8月の労働者大闘争が一つに繋がっていたら、われわれの人生は今より良くなっただろうか?」
進歩は道を失って、両極化は深化された。 かれらは、たまに眠るのが大変だと言った。 その年の夏は、きらめいて美くしかったか?20年がたった日について攻駁するのは意味が無いことだ。その時、青年朴鐘哲(パク・チョンチョル)の死を哀悼して歌を唄った。“一夜の夢は台詞/長い苦痛多恨の後に/君の兄弟の輝く目に/熱い涙を・・・・”(<その日が来れば>中)
我々の数多い間違いと失敗にも拘らず、満ち溢れた喊声が一夜の夢ではなかったはずだ!!(訳 柴野貞夫)
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